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連載『猟奇』刊行の思い出
ことし(1976年)の7月に小社から刊行した、山本明著『カストリ雑誌研究―シンボルにみる風俗史―』(定価4200円)の付録に『猟奇』創刊号の復刻版をつけた。
『猟奇』はカストリ雑誌の代表的なものであったから最適であるという判断からであった。じつは戦後最初の押収処分になって有名な「H大佐夫人」の掲載された2号を復刻したかった。しかし、現代でも「ワイセツ」に対する当局の取締りの感覚は旧態依然としており、かつ、この問題でムダな論争などしたくなかったからやめた。
もっとも、創刊号の表紙にでている、夜る読むな。というのがおもしろいし、編集者の創刊に対する姿勢も入っているから、これに決めた。創刊号を復刻するにあたって、発行人の加藤幸雄氏をほうぼう探したが、結局わからなかったので、復刻版の奥付に加藤氏の所在の連絡を乞う旨を記して出版した。
8月の中旬に加藤氏から直接連絡があった。加藤氏は現在、都内の病院に入院されていて、この復刻版を見られた由。たいへんなつかしい思いがしたといわれた。さっそく面会に行った。お会いしてまずおどろいたことは、氏が意外にお若かったことである。当年60歳とのこと。だから、『猟奇』創刊時は30歳である。そして、当時の話をなつかしそうに回想しながら語ってくださった。編集部として、あらためて、話を聞く機会をつくって、その話をまとめようということになった。
今号から毎下旬号に“『猟奇』刊行の思い出”として連載する。当時、加藤氏や『猟奇』の周辺におられた方々からの連絡を期待する次第である。(編集部)
創刊に至るまで
元『猟奇』発行人・加藤幸雄
所載『出版ニュース』1060号(1976年11月下旬号)pp.6-10
“出版の時代がくる”と予感して
私は浜松の出身で、昭和九年に旧制中学を卒業しましたが、卒業と同時に、新宿区矢来下の南郊社という出版社へ、編集の走り使いという形で入社しました。
南郊社は『社会時報』や『法制時報』などの、堅い法律雑誌をだしていた出版社でした。そこに昭和十二年までいて、支那事変で漢口に応召されたのですが、負傷をして、昭和十四年に除隊になって帰ってきたのです。ところが、南郊社の社長が脳いっ血で倒れて、会社そのものが無くなっていたんです。それで、仕方なく、白木屋の宣伝部に入りまして、そこで働いていたわけです。
大東亜戦争が次第に激しくなって、昭和十七年に軍需会社に徴用でとられたのですが、その軍需会社で、白木屋の宣伝部にいたのなら「産報」(産業報国会の社内報)の編集をやれ、ということで、終戦まで『産報』の編集をやっていました。
八月十六日にその軍需会社はやめてしまったのですが、当時、軍需会社は横暴でして、品物がないという時代に、どこからか紙をもってこれたのです。私がすベて紙の仕入れから、編集、印刷までやっていたので、終戦の時に手配済みの紙が、二百連ばかりあったのです。つまり、まだ会社には納めていないが、私の手配してあった紙です。やめてから、当然、これからは出版物が歓迎される“出版の時代”がくるだろうと思いまして、そのチャンスを狙っていたわけです。
ところが、そんな状況じゃないんです。神田から日本橋の印刷所がすべて爆撃でやられていて、紙はもっていても、印刷するところがどこにもないのです。
といって、私が使っていた社内報をだしていたような印刷所では、とてもページものを印刷する能力なんかないし、困っていたんです。そのうちに、畑の真ン中に疎開していて中島飛行機の伝票を作っていた印刷所をみつけることができたのです。永進社というのですが、さっそく飛び込んで交渉したところ「やりましょう」と、引き受けてくれたのです。ところが、表紙を刷る紙がないんです。
――なぜ、出版をやろうと思われたのでしょうか。
当時、占領軍がくるぞ、というので、出版をやっていた連中と話し合っているうち、占領軍のお土産に浮世絵のようなものがいいだろう。浮世絵やらキワどいもの、エロチックな出版物なら、きっとスーベニアとしてうけるぞ、という話がでていたんです。
じゃ、やってみるのもいいが、刑法に引っかからないだろうか。終戦になって、政治、思想のことなら、何をやってもいいだろうが、軟文学の方で、それが許されるだろうか、ということになったのです。大丈夫だという人と、いや、やはり刑法が生きている限り、危ない、という人と意見が分かれるわけです。
しかし、内務省も警視庁も、検閲はいかんというのでやめてしまっているのだから、引っかける方法がないじゃないか、と議論百出の状態だったわけです。そこで、私の知り合いの伊藤という弁護士を交えて話してみると、彼が言うには、ともかく、占領軍オンリーの世の中なのだから、内務省の検閲も刑法百七十五条もないよ。占領軍の中のCCD(民間検閲課)が検閲機関なんだから、CCDの検閲さえ通れば、内務省も警視庁も、恐らく引っかけてはこないはずだというのです。で、ともかく、むかし発禁になった本を、一冊だしてみようじゃないかという話になってきたわけです。
──当時の仲間といわれるのは、どんな人たちだったのですか。
『改造』の記者や、『四畳半……』をだして引っかかった松川さん、アンコールワットの本をだした三宅一郎さん、平井太郎さん、つまり江戸川乱歩さんですね。そういった人たちが集まって、いろいろと話し合っていたわけです。
当時、江戸川乱歩さんは池袋に住んでいて、よく遊びにいっては、そんな話をしていたわけですが、世の中がひっくり返ったような時代でしたから、どうすればいいかということになると、だれも分からないわけです。出版に目をつける人は少ない状態だったわけです。当時、私は世田谷の若林に住んでおりましたが、すでに結婚して、二歳の女の子がいました。
ま、たまたま私が紙を二百連もっていたということが、出版をやろうというキッカケなんです。紙をそのまま、闇で売って儲けるよりも、印刷して売った方が儲かるだろうという、ごく単純な発想だったわけです。それには、出版の自由というのだから、エロチックなものをだしてもかまわんのじゃないか、どうだろうかという、模索時代があったわけです。
そのうちに『新生』がでてきた。こんなカタイものならいいのだな、と思ったわけです。はじめて『あかね草紙』をだしてその中に、過去に引っかかったものを入れてみたわけですが、それがスムーズに通ったので、これがスムーズに通るようなら、大丈夫なんだな、と思ったわけです。
二百連の紙と八万円の資金で
──当時、続々と発刊された雑誌、ことに『りべらる』について、どう思っているか、お聞かせ下さい。
『りべらる』は、私はカストリ雑誌とは、思っていませんでした。いわゆるカストリ雑誌、エロ雑誌と認めなかったわけです。当時でた『小説と読物』などは、完全な小説雑誌ですし、私の知人の二十二、三歳の若い男が一冊だけだしてやめた『ろまねすく』という雑誌がありましたが、これなども『りべらる』をちょっと軟化したような雑誌で、私はエロ雑誌とは認めませんでした。
戦前、梅原北明のやっていたようなキワどいものとは認めていなかったのです。梅原北明のやった文芸市場社もののようなキワどいものが、堂々とやれるかどうかと、思っていたわけです。
その後、『猟奇』をだす一か月前に『赤と黒』がでたんです。「やられた」という感じでした。やはり、自分と同じ考えをもつ奴がいたんだな、と思いました。『赤と黒』は、編集は高橋鐵さんがやっていましたが、代表者、発行人は違う人でした。当時は、編集の人も、高橋鐵さんも知りませんでした。高橋さんとは、あとで知り合いになったのですけど……。
それで、私も、よし、それじゃ『猟奇倶楽部』というものをだそうとして『文芸市場』の執筆陣を探したのですが、どこにいるか、分からないのです。そこで、新聞広告をだそうということで『猟奇倶楽部』の原稿募集の広告を、中央、地方の新聞にだしたわけです。朝日だけはダメでしたが、その他の新聞には三面に四~五行の募集広告を、十日位の間隔でつづけてだすわけです。そしたら平井太郎さんが本名で「遊びにこないか」と手紙を下さったのです。さっそくお訪ねしますと、「『猟奇倶楽部』というのは、むかし俺がだしていたんだよ」といわれるのです。「それじゃ、『猟奇倶楽部』じゃまずいですね」といいますと、「いやいや、『猟奇倶楽部』でいいよ。俺はもうやる気がないんだから、使っていいよ」という返事です。それでも、「あまり悪いから、クラブを抜いて、猟奇だけにしましょう」ということで、平井さんの許可もでまして、『猟奇』となったわけです。
その頃、『文芸市場』の編集をしていた花房四郎(当時四十五、六歳)という人が、新聞広告をみて、「私を使ってくれないか」といってきたのです。私は、「使うということより、編集者として、原稿集めをしてくれないか」ということで、その人を編集員にしたわけです。一号は原稿が揃っていたので、二号の原稿は、その人が集めてきたと思います。ですから、ほとんど「文芸市場社」の時代の作家が全部原稿を書いてくれたはずです。
一号の方は、原稿募集の広告をみてきた人たちの原稿で、大平陽介さんの原稿なども、新聞広告をみた持ち込み原稿なんです。当時、すでに太平さんは、作家として有名な人でしたからね。このように、創刊号の原稿は、すべて持ち込み原稿で埋まったんです。
──茜書房のスタッフについて。
スタッフは、私と岩下という人。この人は、当時、二十歳位の若い人で、東宝女優の中島そのみの兄貴です。それと伊那美という人と三人で、創刊号はだしました。営業は、女の子が二人、男が二人、計七名が茜書房の全陣容でした。
資本金は、当時の金で八万円しかなかったのですが、八万円の現金と二百連の紙をもっていたというだけです。
茜書房の当時の収入は『あかね草紙』が定価十円で、原価二円の本が三千部もでていたので、すごく儲かったわけです。その儲かった金は、さっきいった『猟奇』の原稿募集の新聞広告に使ってしまいました。その他、親父が残してくれたものなどを加えて『猟奇』の資本を作ったわけです。
当時は、何をしてでも、やる気さえあれば食えた時代でした。八万円あれば、十六万円にすることも、危険さえ冒せば簡単にできた時代です。もののない時代ですから、畳一畳五十銭で買ってきて、五円に売れるような時代ですから……。
──当時の八万円といえば、どれくらいの価値があったのでしょうか。
いまの金に直せば、八千万から一億に匹敵するのではないですか。
創刊号は二時間で完売
さきほど申しましたように、創刊号は、新聞広告をみての持ち込み原稿で全部埋まったわけですが、新聞広告をみた作家たちも、俺はここにいるぞと名乗ってきたり、仲介者を通して消息が分かったりして、二号をだすための母体はできてきたわけです。
ただ、当時いちばん困ったことは、活字がないことです。初校など三分の二が活字がないために伏せ字で、再校でまた三分の二が伏せ字になる、というような状態でした。創刊号など、五校までとったのですが、それでもまだミスが多くあるんです。
ですから、でるまでに校正に三か月位かかっています。しかし、雑誌でそんなに校正がとれないので、もういいだろう、ということで、十月に創刊号をだしたわけです。
刷り部数は二万部だったわけですが、二万部の根拠は、新聞広告をみた直接購読の読者が、約一万人ほどいたわけです。それだけで一万部は間違いなくでていくので、あと市場へだす分として一万部、合計二万部という線がでたわけです。
送料は三十銭でしたが、直接購読分については、全部こちらで負担しました。当時『赤と黒』の定価が三円でした。雑誌の定価は二円五十銭から三円の時代でしたので、十円の定価の中から、送料三十銭というのは、安いものでした。卸値は七半で卸したと記憶しています。卸したのは、戦時中、読売の広告代理店をしていて、終戦とともに元の取次店に戻った河野書店と不二美書店でした。
この不二美書店というのは、いま渋谷駅前にある大盛堂の先代の舩坂さんがやっていた書店で、当時は、不二美書店といっていたわけです。この二店の他に栗田書店を加えて、三か所の大手に卸していました。関西では、大阪屋号、京都の博文館などです。
創刊号を扱ったのは、河野書店だけでした。つまり、引き受け手がなかったわけです。しかも、七半の現金取り引きでした。ところが、いざ売りだしてみると、創刊号は二時間で売り切れてしまったのです。当時は、地方の書店の親父さんが、リュックサックに現金を一杯つめこんで、東京まで買い出しにきていましたから、新聞広告などで本がでることが分かっているので、発売と同時にワッと買い占めたのでしょう。河野書店を紹介してくれたのは、不二美の舩坂氏でした。河野書店は、神田駅の近所にありました。
創刊号が二時間で売り切れたというので、二号のときは、ぜひよこせという取次が殺到して、困りました。不二美の松坂氏などは、河野を紹介したのは俺じゃないか、俺のところへよこさないなんてけしからんとどなり込んできたりして、大変なものでした。奥付の日付けと、実際にでた日も違っています。いちばん違っているのは、四号です。これは、許可がなかなかおりないので、一か月以上も違っているはずです。
伏字は出版の自由に反する
──創刊号をだすために許可をどのようにして受けましたか。
当時、宝塚劇場の隣りにあった関東配電ビルにCCDがあったわけですが、二階が新聞係、三階が雑誌、書籍係だったと覚えています。
許可の申請は、ゲラ刷りをもっていくわけです。オフセットなので逆刷りのゲラになりますが、これを二部製本して提出すると、表紙にCIE(民間情報教育局)のハンコを押して、一部が戻ってくるわけです。これで許可がおりた、ということになります。
書類は、責任者、発行所、発行日、題号、ページ数などを英文、和文の書類にまとめてだすわけです。すると、何日何時にこいという通知がきてその日に出頭すると、表紙にハンコを押したゲラ刷りを返してくれる。それから実際に印刷にとりかかるわけです。創刊号はそのようにしたと思いますが、のちは許可がおりるものとして、印刷に入っていましたがね。
創刊号で、引っかかったところが、一か所あるのです。筆者の原稿にあった名前を二宇、伏せ字にしたのですが、そこが通らなかったのです。それで、こちらで名前を勝手につくって入れたことがあります。○○でも、××でもいけないというのが、指摘された理由でしたが、○○や××となると、出版の自由に反するということだったのでしょう。
許可がおりるまでは、三日位かかりました。新聞はその日におりたそうですが、雑誌や単行本は三日かかるのが、当時の状勢でした。訂正した後は、再提出しなくてもよかったと思います。検閲者の名前は、記入してありませんでした。
その後、検閲のやり方も分かってからは、当時は紙型をとる技術のない時代だったので、すぐ印刷にかかりました。それでなくても、活字のない時代でしたので、版を組んだまま、何日も置いておけなかったわけです。
校了と同時に、徹夜で刷り上げてしまうのが、当時のやり方だったわけです。
創刊号の原稿は、私がすべて読んで、編集も私がやったので、ミスについてもすべて私の責任です。表紙の「夜る読むな」の送り仮名のミスについても、気づいていたのですが、すでに版がおりているので、直せなかったのです。(つづく)
戦後摘発第1号―北川千代三『H大佐夫人』でー
所載『出版ニュース』1063号(1976年12月下旬号)pp.24-25
前回お話したように、創刊号は、二時間で売り切れるほど好評でしたが、二号を出すにあたって、創刊号を刷った永進社という小さい印刷所では、今後、毎号だしていくことは不可能だということで、浅井資料印刷というところがみつかり、訪ねてみると、活字も六号活字を使っていたのです。
六号活字なら、ページ数も少なくて、原稿も多く入るので、そこに変えたわけです。紙は、創刊の時にもっていた二百連の紙が、まだ八十連ぐらい残っていましたので、ヤミ紙を買い足して、六万部刷ったのです。
後でお話しすることになりますが、二号が警視庁に摘発されたときは、二万部隠して、四万部刷ったと申し立てましたが、実際は六万部の刷り部数だったのです。
二号の表紙の題字と絵は、当時、資生堂の宣伝部長で、有名なバラのマークを描いた山名文夫さんでした。画料は三千円で、当時としてはかなりの額だったと覚えています。
ただ、編集スタッフだった花房四郎が、山名さんを知っているということで仲介したので、三千円がそっくり、山名さんの手許へ入ったかどうかは分かりませんが……。領収証というのが、名刺に判をいただいてきているだけでしたから……。
一万円の顧問料
──二号の編集スタッフについて。
二号の編集からは、スタッフがふえました。二号から参加した花房四郎の他に、斎藤昌三さん、明治大学の藤沢衛彦さん、それと三宅一郎、この三人を月一万円の顧問料をだして入れました。
雑誌の定価が高いのでだせたのですが、当時の一万円といえば、かなりの高給をはずんだことになります。なにしろ、女の子の給料が六百円、男の営業部員でも月給千円といった時代でしたから。
──二号で、いちばん印象的な記事は、どの記事でしょうか。
梅原北明の“遺稿”が載ってます。当時、あれはニセものだという説も流れていましたが、北明のほんものの“遺稿”なんです。というのは、青山倭文二という人が、小田原の北明の自宅から、直接もらってきた原稿なんです。北明は、小田原の自宅で亡くなったんですが、亡くなった直後に、その原稿を手に入れているのです。原稿用紙も北明自身の原稿用紙でしたし、確かにほんものだったと、いまでも思っています。
──問題の北川千代三という人は、どんな人だったのでしょうか。
北川千代三氏を徳田純宏氏とも知らなかったのですが、私の家の近所に役者の柴田信という男がいて、彼は後に『妖奇』という雑誌の編集にたずさわった男ですが、その男が家へきて、「この原稿を買ってくれないか」というわけです。本名は別にいわなかったのですが、「この人は浅草の軽演劇では有名な劇作家で、別名で書いているんだ」というわけです。
読んでみると非常にいいものなので六千円で買い取ったのです。この六千円という金額が、後に摘発されてから問題になる金額ですが、ともかく、その時は六千円でその原稿を買い取ったわけです。
挿絵は、当時まだ美校といっていた現在の芸大の学生だった高橋よし於という人に頼んだのです。当時、私は、その絵をワイセツとも何とも思ってもみませんでした。
原稿と引き換えに現金を払う
──原稿料について、お聞かせ下さい。
すべて、現金引き換えでした。だから、いつも現金を手許へおいていないと、何もできないんです。
紙を買うにしても、小切手が信用されない、まして約束手形など通用しない。しかも、当時は千円札のない時代ですから、すべて百円札です。百円札をリュックサックにつめて背負ったりカバンに入れてさげ歩いたりした時代です。
だから、何かを買ったといえば、その場で現金を支払わねばならぬありさまだったわけです。
──二号は六万部刷って、全部配布したわけですね。
ええ、六万部刷ったうち、一万部は直接購読者がありますので、一万二千部ほどうちへ残したのです。摘発されたときには、八百二十何部か残っていました。
その時も、隠そうと思えば隠せたのですが、一冊もないのはおかしいということで、「いいや、いいや、八百部余りはだそう」ということになったのです。
その時は、もう市場には一冊もなくて、それでもなお一冊でもあれば分けてくれといって、電車に乗って自宅まで買いにくる人が毎日十人、二十人とあったくらいですから。
──いよいよ、二号が警視庁に摘発された、核心のお話しをお伺いしたいのですが……。
一月八日が仕事始めで、みな顔合わせだけで帰ったわけです。
翌九日の朝七時頃、私がまだ床に入っていると、営業部の栗田というのが、「社長、社長、今朝の新聞見ましたか」といって、飛び込んできたわけです。「いや、いま新聞を読んでいるところだよ」というと、「読売新聞を読んで下さい」と、大変な興奮ぶりなんです。「なんだよ、そんなにあわてて」といいながら、読売新聞を開いてみると、三面のトップ記事に、“桃色雑誌初の摘発か!!”という大見出しがでているんです。
「こりや、大変だ!!」と記事を読んでみると、刑法一七五条ワイセツ文書頒布罪で『猟奇』二号が摘発され、私も逮摘されたと書いてあるんです。
だいいち、私はまだ捕まっていないし、創刊号も無事通っているし、『あかね草紙』も引っかかっていないのに、おかしいぞと思いながら、解説記事を読んでみると、内務省、警視庁、区検の三者が協議した結果、二号が一七五条に引っかかり摘発できる、という結論に達し、本日摘発に踏み切った、と書いてあるんです。
完全に読売だけのスクープでしたが、私は「こりや、困ったことになったぞ」と、ともかく、栗田を知り合いの伊藤弁護士の許へ走らせたわけです。そして、危いなと思えるワイセツ資料を何とかしないと、家宅捜索をされることは分かっていましたから、その準備にとりかかったわけです。
八時頃には、新聞をみて社員たちも駆けつけてきましたので、庭でタキ火をよそおって、資料を燃やし始めたのです。
しかし、九時になれば、警視庁からくることは分かっていましたから、全部燃やすには時間が足りないし、家の裏に小さな川が流れていたので、燃やしきれない資料は川へ投げ込みました。
そして、「さあ、いつでもいらっしゃい!」と待ち構えていたら、九時半頃、加藤進という警部補が一人でやってきたんです。そして、「今朝の新聞でご存じでしょうが、やって参りました」──そういって、警察手帖をだしてみせるんです。
「まァ、どうぞお上がり下さい」と加藤警部補を家へ上げていると、後から他の刑事や巡査がやってきたのです。集ったのは、五人ほどでした。で、家宅捜索令状をみせて、証拠品として押収しますということで、残していた八百部余りの『猟奇』二号と、読者カードやら、集っていた原稿、帳簿類を押さえたわけです。
取り調べ官と夕食
ところが、センセイたち車で来ていないもので、押収品をもって帰ることができないんです。で、私がいつも使っていた大和タクシーを呼んで、保安係員二人と私、それに押収品を乗せて、警視庁へ向かったわけです。
警視庁に着くと、当時は四階が保安一課、二課の部屋で、文書関係の一課の部屋へ入っていくと、「もう居なかったろう。あの新聞がでてたんじゃ」と、奥の方の机で、一課長がどなっているんです。「いや、いや、居りましたよ。この方が加藤さんですよ」と、ついてきた刑事がいうと、「なあんだ、若いじゃないか。俺はまたハゲチャビンがでてくるんじゃないかと思っていたのに」といって、「よくとんずらしねえで居たなァ」と笑っていました。
さっそく取り調べが始って、いろいろ調べられたわけですが、夜九時頃になって、さきほど八時頃、伊藤という弁護士がきたので、今日は帰すが、取り調べの内容をしゃべってはいかんよ、というわけです。「いや、しゃべりませんよ」というと、「約束できるんなら、証拠隠滅の恐れもないことだし、帰ってもよろしい」ということになったのです。夜の十時半頃だったと思います。
それから後の話は、当時はオフレコだったんですが、もう時間も経って時効でしょうから、話してしまいましょう。
帰ってよろしい、ということで、やっと解放されたんで、いそいで飛びだしたんですが、正面玄関のところまできて、オーバーを忘れたことに気づいたのです。
で、四階まで引っ返すと、さっきまで私を取り調べていた加藤警部補と、飯倉という巡査部長が帰り仕度をしていたので、腹が空いたので天ぷらでも、ということになったのです。銀座・並木通にある天ぷら屋へいったわけです。そこで、三人で五円くらい飲み食いして、私が払おうとすると、「とんでもない。いま、君に払われたら、俺がクビになるから」と加藤警部補がとめるので、「じゃ、やめましょう」と先方に払わして、帰る方向を聞くと、三人ともだいたい同じ方向だったのです。「それじゃ、私がタクシーで送りましょう」ということで、タクシーを拾って乗り、渋谷で知人がやっていた料理屋へつれていって、そこで再び一時頃まで、三人で飲んだわけです。(つづく)
頭を下げた理由―経済事犯をちらつかされてー
所載『出版ニュース』1065号(1977年1月下旬号)pp.40-41
翌日、警視庁へ九時に出頭すると、加藤警部補たちは制服姿で、厳然と構えて私を待っていました。
しかし、昨夜遅くまで一緒に飲んだばかりなので、私はつい親しいポン友のような気持ちになって、取り調べられているという実感が、どうしても湧かないんです。
向こうにも、そんな気持ちがやはりあったんでしょう。取り調べは、九日から十四日まで続いたのですが、その間、ふつうは名前を呼び捨てにするのに、「加藤サン」と「サン」づけで呼ばれるし、取り調べ中、タバコは奨められる、昼飯刻になれば、頼みもしないのに食事は注文してくれるといった按配で、至れり尽くせりのサービスぶりでした。
漫才が取締りのキッカケ?
確か、何日めかの昼食をたべながらの雑談のときだったでしょう。「加藤サン、実は、あんたの雑誌が引っかかったのは浅草の漫才がきっかけだったんだよ」というのです。
「それは、また、どういうわけですか?」と訊ねると、ある日、保安係の他の刑事が、浅草の寄席ヘブラリと入ったんだそうです。演し物の漫才の中で、『猟奇』『りべらる』『赤と黒』という雑誌の名前を口にするたびに、お客がワーッと湧く。いままで、そんな雑誌のでていることも知らなかった刑事はさすが職業柄ピンときて、それから、チェックを始めた、ということです。
すでにお話したように、『猟奇』の創刊号は、発売と同時にわずか二時間で売り切れたのですが、すぐに浅草の漫才がネタにとり上げるほど大きな反響を呼んでいたとは、私自身も知らなかったのです。
これは、後日談になりますが、私を取り調べた加藤警部補と飯倉巡査部長の二人は、私に好意を持ちすぎて、その後も適切な摘発をしなかったとかの理由で、加藤警部補は福島県警へ、飯倉巡査部長は都内の所轄署の看守係へと、それぞれ飛ばされたとか聞きました。
──取り調べの内容について。
取り調べは、「H大佐夫人」に限られていました。挿絵が二つ引っかかったんです。男性そのものが見えるという理由で、一つは、風呂場の場面、もう一つは覗きの場面です。
ところが、面白いことには、後で復刻版をだしたときには、同じ場面があるのに、何もいってこないのです。
これも昼食の雑談のときの話ですが、あれが「H大佐夫人」ではなく、ふつうの「未亡人」だったら引っかからなかった、というようなことを、チラッと口にしたことがありました。はっきりとは、その筋から何かがあった、とも、なかったともいいませんでしたが、私はそれを聞いて、やはり、何かがあったんだナと、直観的にそう思いました。
挿絵を描いた高橋氏は、いちおう書類送検はされたのですが、まだ学生の身分でもあり、結局、不起訴処分となりました。
利潤は追徴金として没収
ちょっと話が前後しますが、取り調ベが進んでいくうちに、別の問題がでてきたのには弱りました。つまり、紙の問題です。紙の割当ては、創刊号は一連半の配給しかもらわなかったし、二号についてはまったく配給がなかったわけです。しかし、雑誌はちゃんとでている。「これはおかしい。ヤミ値の紙を買ったんだろう。経済事犯として回す」といいだしたんです。
当時、経済事犯は罪が重く、体刑に処せられたのです。その上、紙を買ったところ、印刷所など、参考人として呼びだされて調べられるわけです。それでは、周囲に迷惑がかかる。風俗事犯だけですむならば、罰金五百円と、八百部余りの雑誌を没収されるだけですむ。よし、ここではあっさりと頭を下げて、認めてしまおう、そう決心したわけです。
知り合いの伊藤弁護士は、裁判まで持ち込むべきだ、と主張したのですが、もし、裁判までいって負けたら、次の号の雑誌がでなくなる。それに、裁判の費用も大変だ、そう思って、あやまってしまうことにしたわけです。
それで、略式裁判の結果、罰金五百円八百部余りの雑誌は破棄処分ということになり、やれやれ「一件落着か」と安心していたところ、二、三日して「検察庁から、追徴金の通知書がきて、びっくりしました。
「あの件はもう片づいたはずなのに、どうしてこんなものがくるのか?」と訊ねると、当時の罰金は、最高額が五百円なので、雑誌で得た利潤を、追徴金として没収する、というのです。
私は、「失敗した。ペテンにかけられた……」と思いましたが、もう後の祭りです。取り調べのときには、追徴金のことなど、一言もいってないわけです。こんなことなら、正式の裁判にかけるべきだった、と悔んでみても、もう遅いわけです。
結局、三万部の売上げ四十数万円のうち、利益金として帳簿に記載してあった十六万円余りを、追徴金としてとられてしまいました。
──さっき、「H大佐夫人」が引っかかったのは、その筋からの何かがあったのでは、といわれましたが、あからさまに、GHQから具体的な形でのプレッシャーがあったのでしょうか。
いいえ、当時は何もありませんでした。創刊号から三号までは、CCDの許可はスムーズに下りていたわけです。二号が警視庁に引っかかっていたときには、三号の校正が終わって、印刷へかけようとしていたところですから、三号までは順調にきていたわけです。しかし、二号が取り調べ中だったので三号の印刷にとりかかるのは中止させておいて、二号が罰金刑だけですみそうな予想がついてから、三号の印刷に入ったのです。
定価十二円でも飛ぶように売れる
ですから、三号は一月二十五日付の発行日となっていますが、実際の発行は少し遅れて、二月になってからだと思います。
その間、三号の発行はどうなったのかという問い合わせが、問屋や読者から殺到して弱りました。それで、いよいよ三号がでるというときは、「刷新猟奇、いよいよ発売!」という新聞広告をデカデカとだしたり、チラシを配ったり、電柱や本屋の店頭に宣伝したものです。
このようなわけで、GHQに関するかかわりがでてきたのは、四号以後のことです。それについては、後でお話しますが……。
──二号の定価十二円というのは、当時としては、かなりいい値段のような気がしますが。
それでも、まだ、「安いよ」という声が多かったくらいです。他の雑誌が、三円から三円五十銭の定価をつけていましたから、私自身は、決して安いとは思いませんでしたが、問屋や小売書店からはもっと高くしてくれ、という声が圧倒的でした。
というのは、発行する前から、前金を置いて、地方の書店が書いにくるくらいでしたので、発行されると同時に、『猟奇』を一冊買うためには、他の雑誌を一~二冊つけて、いわゆる抱き合わせでないと売らない、という商法を問屋や書店がとったわけです。
抱き合わせ販売には十二円という定価は中途半端だ。抱き合わせの雑誌をつけて十五円で売ったんでは、つける雑誌がタダ同然になる。十五円にしてくれれば、十八円でも二十円でも売れるからやりやすい、とこういう理由で、三号は十五円の定価にしてくれといってくる始末です。ですから、いま思えば、ずい分ムチャな話ですが、二号の十二円という定価でも、飛ぶように売れたわけです。
儲けた金はすべて紙代に
──そうすると、ずい分儲かったという実感はあったでしょう。
ありましたね。八万円の元手で始めたわけですが、一冊だせば、五十万、六十万の現金が動くわけです。ただ、当時は超インフレ時代でしたから、儲けもすべて、次の雑誌をだすための紙代につぎ込んでしまいました。
一回だして、それでやめれば、かなりの儲けになったと思います。編集者の月給を払い、税金、営業経費、諸雑費を払った残りは、すべて紙代につぎ込んだといってもいいでしょう。
一連二百円で買えた紙代が、次号をだすときには、三百円から四百円に値上がりしているわけですから、大変なんです。
当時、仙花紙をあれほど大量に使った出版社は、うちだけだったでしょうからブローカーを通して買う紙のために、まい日駆けずり回っていたわけです。
ですから、自分の時間なんてほとんどない状態で、金が儲かったから楽になったというより、かえって忙しく飛び歩いていたということです。酒を飲むんでも真夜中に自宅で寝酒を飲む程度で、本当に忙しいまい日が続いたものです。(つづく)
終刊号を出せとせまるー第四号発行で地下に潜るー
所載『出版ニュース』1071号(1977年3月下旬号)pp.10-11
──当時、他誌との交流は?
まったくありませんでした。たまに、問屋へ行ったときに、問屋の主人から、「あの方が『赤と黒』をやっている。○さんですよ」といわれて挨拶するぐらいで、顔見知りでもなく、いろいろ話し合うといった直接の交流は、ぜんぜんありませんでした。
ピンク雑誌からカストリ雑誌へ
──カストリ雑誌という呼び名は、いつ頃からなのですか。
『赤と黒』が三号で廃刊した頃ですね、カストリ雑誌という呼び名がでてきたのは……。それまでは、「桃色雑誌」だとか、「ピンク雑誌」という呼び方が、一般的だったようです。
言葉としては、「桃色雑誌」というのが、いちばん早かったようです。つまり『猟奇』の二号が挙げられたとき、読売新聞がスクープして、見出しに大きく、派手に扱ったのが「桃色雑誌」という呼び名でした。後から追った他紙は、読売と同じ言葉は使いたくなかったのでしょう、「ピンク雑誌」という呼び名で、記事を書いていました。
もちろん、私どもは、自分の雑誌を、「桃色雑誌」とも「ピンク雑誌」とも思っていませんでしたから、編集室では、絶対にそんな呼び方はしませんでしたし、もっと大きな仕事をしているつもりでしたが、世間では、そのような呼び名で通っていたようです。「カストリ雑誌」の語源は、当時のカストリ焼チュウにもじって、三合(号)でバタンキュー、とつぶれてしまうことからつけられたと、当時の新聞のコラムで読んだ記憶があります。その後、『猟奇』の三号か四号以降から、「カストリ雑誌」という呼び名が、定着したようです。
『ガミアニ』出版の顛末
──三号に、『ガミアニ』の広告がでていますが、『ガミアニ』について。
『ガミアニ』については、当時、だれに聞いても、『ガミアニ』の検閲許可は下りないだろうというのです。そこで、私は、ものは試しとばかり、堂々と、CCDへ検閲にだしたのです。仲間は、もし『ガミアニ』がパスすれば面白いな、これが通るくらいなら、『猟奇』が引っかかるようなことは、絶対にないよ、といっていたくらいです。
ところが、やはりいくら経っても、検閲から下りてこないのです。『ガミアニ』は、D・H・ロレンスの作といわれている世界の発禁書ですから、やっぱりダメかな、と思っているうちに、二号が引っかかってしまったわけです。『ガミアニ』は、奥付もきちんとつけてだしたわけだし、二号で広告してしまっているので、読者からの注文が殺到して、困ってしまいました。
はじめは、許可が下りないんだと断っては、読者に、送金してきた金を返していたのですが、返し切れないので、奥付をはがして、直接、申し込んできた読者に送りつけることにしました。つまり、「秘密出版」ということになったわけです。その直接送本分が約千部ほどで、残部がちょうど千部あったので、訳者に三十部ほど分けて、九百七十部の残りは、倉庫へほうり込んでしまったのです。
ところが、大阪に『猟奇』が移ってからのことですが、私が旅行中、警視庁から、『ガミアニ』を送ってくれないか、といってきたのです。それを知らぬ間に、給仕さんが送ってしまったらしいんです。
何も知らずに旅行から帰ってくると、警視庁から、『ガミアニ』という本をだしましたネ、といってきたわけです。
だそうと思って本は作ったけど、全部そのまま倉庫へしまってありますと返事をすると、何部作ったと聞くので、実際は二千部作ったのですが、千部作って、訳者に三十部やり、九百七十部は倉庫にあるはずですというと、じゃ見せて下さいというので倉庫を調べると、一冊足りないのです。帳簿を見ても、売った伝票もないし、お金も入金していない。一冊足りないのはおかしいな、とは思いつつも、給仕さんがだまって送って、その金をネコババしたことを知らない私は、一冊も売っていません、とがんばったわけです。
すると、じゃ、警視庁まで来てくれ、というので、警官と一緒に警視庁へいくと、絶対に売っていないといってたはずの『ガミアニ』を、係官が机の上に、ポイとだしてきたのです。「じゃ、これはどうしたんだ」と、係官は現物をつきつけてくるのですが、私はいや、決して売ってないはずです。この本だけは、売ってはいかんといっていたのだから、絶対に売ってないはず、とがんばったのですが、机の中から封筒とひもまでだされて、始めて一部始終がのみこめたわけです。宛名の筆蹟をみると、給仕さんとして使っていた、日大の学生で、家に寝泊りしていた男のものです。
こりゃしまった、と思いましたが、送ってしまった以上どうしようもないので、私の知らん間に学生さんが送ったのでしょうが、私が送ったこととして認めますから、学生さんには傷をつけずに、何とか始末をつけて欲しいと頼んだわけです。
結局、その一部を売ったために引っかかって、訳者の三宅一郎氏の自宅へも、三○部を引き上げに係官がいったそうです。ところが、彼は、友人や知人に、「オイ、これはオレが訳したんだぞ」とか何とかいってみな配ってしまった後なので、彼は頒布罪に引っかかってしまいました。それで、彼は二日とめられてしまったわけです。
私は、取り調べだけで、とめられることはなかったのですが、結局、五千円の罰金はくらいました。私もいろいろ挙げられましたけど、起訴されて前科がついたのは、『猟奇』二号と『ガミアニ』の二つだけで、前科二犯ということになったわけです。
それ以外は、破棄処分を書いて、始末書一通だけで、不起訴、起訴猶予という処分ですみました。
──『猟奇』の読者層について
読者層のレベルは、わりと高かったですね。学生から中年までぐらいで、私たちが学生の頃に読んだ梅原北明のものの読者と、同じ程度の読者層です。私もそんなつもりで編集していましたから、いわゆる警視庁のいうような中学生や子どもといった、青少年が買って読むような雑誌ではなかったと思います。
たまたま、『H大佐夫人』という小説が引っかかって名前がでたので、子どもたちも買って読むようになったと思いますが、読んでも程度が高いので、子どもたちには、十分に理解できなかったと思います。私はあくまで好事家を相手にして編集してきたつもりで、警視庁のいう劣情を感じるようなものではなかったと思います。
──三十年前も現在も、警視庁は同じようなことをいっていますね。
そうです。当時から、じゃどこに線を引くのかと聞くと、陰毛はいかんと、その一点張りなんです。でも、陰毛を書いたカットもあるんです。ところが、二号ではいかんといっておいて、復刻版ではそのまま同じカットでも、何ともいってこないわけです。つまり、その時の担当者によって、よかったり、いかんといったり、その辺りも非常にあいまいで、おかしいと思いますよ。
──『猟奇』三号は、あまり問題なくスムーズにいったのでしょうか。
そうなんです。三号の検閲は、二号が引っかかる前にCCDの方へだしてあったので、比較的スムーズに許可が下り、内容的にも、警視庁で問題にされるところもなかったわけです。問題は、つぎの四号のときなんです。
四号の許可は、二号が挙げられたことからか、なかなか下りなかったのです。
四月末まで、GHQへ何度足を運んで頼んでもダメなのです。奥付には、昭和二十二年五月五日発行と刷り込んでありますし、そろそろ、ボーナス・シーズンが近づいてお金も要るので、とうとう六月二十日に、ええい、見切り発車しちゃえ、とばかり、CCDの許可なしで、発行に踏み切ったのです。
許可なしに第四号を出す
四号は全部で四〇万部刷ったのですが、一部一五円の定価の七・五掛で、四〇万部の代金、四五〇万円を発行前日に問屋から集金してきました。そして、事務所へ二〇〇万円渡し、家庭へ一五〇万円、私が一〇〇万円ほどとって、しばらく、姿を消すことにしました。
会社の者へは、この二〇〇万円で、つぎの号がだせるようならだしてくれ、もしむつかしいようなら、皆で二〇〇万円を分配して、退職金代りにしてくれ、といい、家庭へは、この一五〇万でしばらく生活してくれと女房にいい置いたわけです。
当時、占領軍への批判や反抗は、南方へ連れていかれて、重労働をやらされるといわれ、事実、そのようなケースもいくつか実際に聞いていましたので、許可なしに本をだしてしまった以上、私としては、逃げるしか仕方がなかったのです。ですから、私としては、この四号が最終号になるかも知れないと、そんな気持ちでした。
そこで、私は、修善寺の旅館へ逃げて、隠れていたのです。六月二八日に、事務員が修善寺まで訪ねてきて、CCDで探しているから、どうしてもでてきてくれ、というのです。CCDの係官で、岡山出身の二世の宗さんという人が、いまでてくれば、始末書だけですむ。でてこないと、犯罪者扱いにされてしまうから、どうしてもでてくれ、そして、六月三〇日正午までに、CCDへ出頭してくれと、頼みにきたわけです。
それじゃ、ともかくでていこう、ということに決めて、六月二九日に事務所へ帰ってみると、宗さんという人が事務所で待っていました。そして、帰ってきたのなら、今までのことはいいから、明日、CCDまで来て欲しい、その際、何故許可を待たずに発行したのか、いきさつを書いてきてくれ、というわけです。それで、原稿用紙五~六枚に従業員の給与、ボーナス、紙代、印刷代、倉庫代などの支払いに迫られて、切端詰った状況になり、やむをえず発行してしまったんだ、という理由書を書き上げました。
実質的な廃刊をせまる通告
翌三〇日の午前中、理由書を持ってCCDへ行き、届けたのです。いってみると、当時の新聞課長だったインボデン少佐が、何やら英語でどなりながら、カンカンになって怒っているんです。そこで、約三〇分ほどインボデン少佐にどなられて、最後は、理由書の宛名を「連合軍最高司令官マッカーサー元帥」にしろという指図がでて、この問題は、それで一件落着ということになりました。
ただ、今後のことについては、五号にこれで最終号にするということを入れればいいが、もし入れないならば、全文を英訳したものと、日本文のもの二通をだし、それでも、検閲は二~三か月かかるだろう、というわけです。つまり、実質的に、もうやめろ、というわけです。
そこで、私は宗さんに、五号については、表紙も記事もできていて、すでにゲラ刷りの段階にあるが、CCDの方で検閲を通さないというのなら仕方がない。あきらめます、というと、宗さんは、いや、検閲を通さないといっているんじゃない。ただ、許可までに時間がかかるといっているんだ、というのです。
私はそれを聞いて、もう、ダメだ、と思いました。それで、ゲラ刷りだった五号の表紙(白地に青文字)を、黒文字に代えて、五号という文字の下に、「終刊号」という字を入れました。そういういきさつからみて、CCDもホットな場面へのチェックは、きちんとしていたのだということがよく分かりました。
四号の他に、CCDから許可の下りなかったのは、すでに述べた『ガミアニ』と『徳川刑門秘史』ですが、この『徳川刑門秘史』は、中味は非常に堅い歴史考察で、いわゆるホットな場面はないものですが、題名からくるイメージで、下りなかったのではないかと思われます。
CCDの検閲も、初期の頃は、全文に目を通すのではなく、パラパラと頁をめくっていた程度だったように思われます。
その後、問題にされた本については、十分に目を通すようになったのだと思います。日本側の警視庁の検閲についても、独自の見方での検閲も多少はあったでしょうが、これはどうして取り締まればいいのかということを、警視庁、内務省、区検の三者で協議して、CCDへ問い合わせにいくと、それは刑法で取り締まれというサゼッションがあったことを、警視庁係官から聞いたことがあります。
──当時のGHQの検閲方法について
題号、発行人、発行日、発行所を和英両文で書き、ゲラ刷りをつけてだすわけです。すると、二~三日後に出頭せよという通知がきます。出頭すると、多くの出版人がきていて、順番を待っているのですが、つぎつぎと呼びだされて、返されてくるわけです。
チェックしたところは、差し込みが挟んであって、ここをこのように直しなさいと、簡単な指示をするだけです。そして、丸い五センチぐらいのCCDの判をポンを押して、ゲラを戻してくれる、それが許可だったわけです。
一号、二号まではその調子でいったのですが、しだいに、ホットな雑誌には、厳しくなってきたようです。二号が引っかかって後すぐに、『赤と黒』の三号が発禁になっています。その後、つぎつぎと引っかけ始めたわけですが、すべて、刑法一七五条の風俗犯罪で引っかけたわけです。『赤と黒』も三号がやられた後に、四号を検閲にだしたが許可が下りなかったので、廃刊に踏み切ったんだそうです。私のように、強引に終刊号までやったのは、始めてだろうと思います。(続く)
終刊号から大阪『猟奇』まで──ダミーを使って再興を計る──
所載『出版ニュース』1074号(1977年4月下旬号)pp.10-11
──「終刊号」から大阪における『猟奇』発刊までの話を。
『猟奇」五号を「終刊号」としてだしたのは昭和二二年六月二五日で、大阪での『猟奇』の発行は一〇月一五日、その間、約四か月足らずあります。すでにお話したように、四号の許可がなかなか下りてこないときに、GHQは『猟奇』をつぶす気なんだナ、と思いました。それで、よし、ここらでひとつ、まじめな雑誌をやってやろう、と思いまして、『猟奇』をだしていた「文芸市場社」とは別に、「幸楽書房」というのを作りました。
事務所はやはり、三軒茶屋の同じ場所でした。その「幸楽書房」からだしたのが、『人人』『ホームライフ』それと『不夜城』です。
『人人』というのは、『赤と黒』と同じ発想で、つまり「男と女」という意味で、こう名づけたのですが、編集スタッフはもちろん、『猟奇』とは別のスタッフでした。『人人』は、二号までで廃刊としましたが、五万部ほど刷って、三万部位売れたと思います。
『人人』が、『猟奇』にやや近い雑誌だったのに比べ、『ホームライフ』は、まじめで健全な雑誌でした。内容は住宅建築の図面や、台所記事、いわゆるサロン風の読物などで、表紙も、むかし『主婦之友』の表紙を描いた画家に頼んで、美人画を描いてもらいました。
こちらは六万部刷って、半分位返本される始末で、あまり売れませんでしたが『人人』『ホームライフ』とも、都バスの車体広告や、省線(国電)の中吊り広告など、創刊の一か月位、派手に宣伝広告をやったものです。
一号雑誌『不夜城』
『不夜城』というのは、創刊号だけでやめた雑誌ですが、六月一〇日の発行なので「幸楽書房」としては、いちばん最初の出版物ではなかったかと思います。内容は『猟奇』とまったく同じものでしたが、ある人から、内容証明の手紙がきて「『不夜城』という名は、自分が商号登録をしているのに、無断で使ってけしからん」と抗議されたので、一号で廃刊にしたわけです。抗議の主には、使用料として、確か五百円位送ったと記憶しています。この雑誌は、五万部刷って、三万部しか売れませんでした。
──それでは、「幸楽書房」も営業的にはダメだったのですか?
雑誌作りの経費そのものはトントンぐらいでしたが、人件費、宣伝費などの経費分が赤字となって、借金に積み重なっていったわけです。
ただ、メリットといえば、『猟奇』の定期購読を三年位予約してもらっていた読者に、『猟奇』の代りに、『人人』や『ホームライフ』を送ったりして、かんべんしてもらったことでしょうか。
その後、「幸楽書房」からは、『猟奇クラブ』というのと『猟奇倶楽部』と漢字名の雑誌と、それぞれ一冊ずつだしましたが、やはり、経費分が赤字で残ったと記憶しています。
大阪CCDで許可をとる
──では、大阪での『猟奇』について。
『猟奇』を東京のCCDと警視庁がつぶしにかかったので、よし、それなら、大阪のCCDで許可を取ってやろう、ということになったのです。発行人は、女房の弟の橋本という当時二一歳の男にして、事務所は、道修町の小さな小売店の二階を借りていたんです。
事務所といっても、「文芸市場社」の名札を部屋の入口に貼っただけで、ただ郵便物の受け取りだけが役割りです。
大阪版『猟奇』といっても、実際の編集業務は、東京・三軒茶屋の従来の事務所で私といままでのスタッフで作るわけです。大阪版『猟奇』第一号は、昭和二二年十月一五日の発行日となっていますが、実際にでたのは、十月一九日です。検閲は、私の思惑が当って、大阪CCDでは、わずか三日で許可をくれました。
一号は一○万部刷って、たちまち売り切れという人気でした。
これに気をよくして、二号は一一月二〇日に「冬期読物号」としてだしたところ、発売して三日めに、発禁をくってしまったのです。それも、大阪の警察ではなしに、東京の警視庁にやられました。
発行人ということで、若い橋本が呼ばれていったのですが、警視庁では、二一歳の若さでどうもおかしいと思ったのでしょう。資本はどうなっているのかなど、いろいろつつかれたらしいのです。彼は答えられない。とうとう、本当のことをいってしまい、警視庁でも、「なあんだ、あの加藤がやっているのか」ということになったのです。
出すものがほとんど発禁
それからは、だすたびに、毎号のようにやられましたね。「冬期読物号」につづいて、「新春読物号」、「臨時増刊号23年3月」、「読物特集号・5月1日」、「新緑号・6月1日」とつづいてやられました。
その頃は、一〇万部刷っても、売り切れるまでに四~五日から一週間ぐらいかかるので、発売して翌日発禁になると、書店などから、全部数の七割位もっていかれるのです。そうなると大赤字で、もうやっていけなくなります。とくに痛かったのは、二三年五月の「読物特集号」で、これは一○万部刷って、印刷屋から運んでいる途中を押さえられ、まったくひどいめに合いました。
この号は、見本として事前に事務所に運んでいた六千部だけが残って、後で、この六千部を五〇部ずつの小分けにして全国の書店に送りつけ、売れた分だけ代金を回収することにしました。
ところが面白いことに、この送りつけた本については、一冊も摘発されなかったのです。警視庁が発禁にした雑誌が、地方では、どこも引っかからないわけです。
大阪版『猟奇」を発刊した後で、近くの書店へこの時の代金を集金して回り、ちょっとでも息をついたという笑えない話もあります。
大阪版『猟奇』も当局につぶされる
──じゃ、大阪版『猟奇』も当局につぶされたというわけですね。
そうです。ハッキリもうやめろといえばやめるのに、そうはいわないんです。
もうその頃は、公定価格も、紙の統制も撤廃されていたので、何もやめさす理由がない。そこで、徹底的に発禁処分を繰り返して、経済的にやっていけないようにして、いわゆる経済封鎖をされたわけです。
最後の頃は、ともかく発禁処分を先にしておいて、後からその理由を考えようというようだったようです。「新緑号」の発禁理由など、「裸体の側で、ローソクの火が燃えていた」というたった一行が、引っかかったのです。
この時は、何でもないそんな一行がなぜ発禁理由になるのだという抗議の文章を手紙に書いて、最高裁判事や検事総長始め検察当局、大学教授、文化人などに送りつけたりしました。それがいっそう警察を刺激して、向こうも意地になってつぶしにかかったのでしょう。
挙げるのも、最初の頃は警視庁だったのですが、駒込署で挙げたり、静岡県の三島署で引っかけたりしだしたのには弱りました。三島署などで挙げられると、毎日、取り調べで通うのが大変なんです。かえって、留置して取り調べてくれればいいのですが、それもしないので、毎日、三島まで通うわけです。
とうとう、義弟もネを上げまして、もうやめたいといいだす始末で、経済的に行き詰ったこととあわせて大阪版『猟奇』の廃刊に踏み切ったわけです。
──その頃、経済的にはどの程度行き詰っていたのでしょうか。
印刷屋、紙代の払いから、高利貸に借りていた金を合わせて、五一六万円の借金がありました。
うち、印刷屋は百万位ですが、やめるというと、働いていた法堂という男が後を継いでやりたいから『猟奇』という名前を貸してくれ、というのです。金主はと聞くと、『猟奇』の印刷をやっていた印刷屋だというわけです。じゃ、名前を使わせるから、百万円の印刷代をそこから相殺しろ、ということで、『猟奇』の名を使わせることにしました。
法堂という男の始めた出版社は、「ソフト社」という名で「文芸市場社」とは関係のない『猟奇』が、二四年に四~五冊でたはずです。
その頃は、もう、仙花紙でない、いい紙の雑誌が多くでまわっていたので、仙花紙の雑誌はあまり売れず、ソフト社の『猟奇』は、四~五冊でダメになったようです。
抑圧された時代への反発──カストリ雜誌の存在意義──
所載『出版ニュース』1077号(1977年5月下旬号)pp.10-11
──大阪版『猟奇』の終戦処理について脚に話したように、だせば発禁という状況でしたので、赤字がものすごいんです。それで、三軒茶屋の家、屋敷を売ったり、当時、二台持っていた車を売ったりして、従業員の退職金や、給料をつくりました。二台の車は、以ずれも外車でしたが、二束三文で叩き売ったわけです。
家、屋敷まで売る
景気のよかった頃に買って、処分して儲かったのは、家、屋敷だけです。家、屋敷は買い値の二倍か三倍に売れましたから、それで、退職金もまかなえたわけです。
帳面上は、大赤字なので、退職金も一カ月分しか払えなかったのですが、それでは、従業員やその家族を路頭に迷わすことになるので、ぼくのポケットマネーから、もう一カ月分の給料を加えて、支払いました。だから、廃刊、退職という事態にはなりましたが、従業員からうらまれるということは、なかったと思っています。
東京人と関西人の違い
──苦しかった当時の資金繰りについて
大阪版『猟奇』の頃ですが、資金繰りのために、問屋に借金を申し込んだことかあります。そのとき、東京人と関西人の違いを、まざまざとみせつけられましたね。
むかしから、関西商人はガメツイといわれますが、ぼくが融資を申し込んで、気持ちよく貸してくれたのは、大阪の問屋です。東京の問屋は、創刊号の頃からの古いつきあいで、本も優先的に送ったりしたのですが、いざ困ったときになると、ビタ一文貸してくれませんでした。その点、関西の問屋は、京都の問屋、大阪の問屋のそれぞれが、二百万、三百万、あるいは五百万、欲しいだけ持っていってくれ、と心よくいって、励ましてくれるんです。
余談になりますが、お金というのは、事業が順調にいっているときは、だまっていても、向こうからやってくるんですね。東京『猟奇』が全盛の頃は、九州の炭鉱で当てた社長が、お金はあるから、いくらでも使ってくれ、といってきたものです。その頃は、借金をする必要がないので、借りませんでしたが……。
会社が落ち目になると、だれも貸してくれません。それだけに、関西の問屋の親切は、いまでも忘れられませんね。
最後にはあきらめた高利貸
──五一六万円の借金は、その後どうなったのですか。
従業員の給料、退職金が、法的に支払らわねばならぬ第一優先の義務ですから、まずそれを支払い、つぎに国税、地方税、印刷代、紙代などの順序です。高利貸に借りた金は、いちばん最後ですが、高利貸の借金取り立てには、最後まで、ずい分苦しめられましたね。妻子がいるから、夜逃げをするわけにもいかず、ぼくがあちこち駆けずり回っているときも、ヤクザまがいの男たちが、家でがんばっているんです。女房には、ずい分辛い思いをさせましたが、最後には、高利貸も、どうしても取れないと、あきらめたようです。
現在のヌード雑誌との違い
──大変なご苦労をされたわけですが、当時のカストリ雑誌と、現在のヌード雑誌を見較べて、どうお思いですか。
ぼくがいうのもなんですが、あの頃のカストリ雑誌に較べて、最近のヌード雑誌には、夢やロマンが感じられせんね。作っている人達もそれなり努力はされているとは思うんですが、やはり時代がちがうということでしょうか。それに多くのものが出ているので、競争も激しいのでしょうね。それと、何十年か経って、後世の人が読んでみたいと思うような、存在理由がないように思われます。当時のカストリ雑誌には、それがあったと思うんです。だからいまこうして、カストリ雑誌が話題とされ、いろいろ論じられていると思うわけですが。
発禁理由として、当局は青少年に悪影響を与えると挙げていましたが、ぼくの知る限り、当時の読者には、青少年は一人もいませんでした。だいいち、当時一〇円の定価ですから、子どもの買える値段ではありません。それは、雑誌をみてもらえばわかるのですが、案外、一般的でないようなものが入ってます。ですから子どもには理解できない部分が多分にあったと思います。ドイツ医学書の翻訳や性医学者の医学知識を紹介したようなものです。固定した読者に支えられていたこともたしかで、読者からの反響をみましても、たいへんおもしろいのがありましたよ。サラリーマンや文化人など、インテリ層の読者が多かった。それが現在のヌード雑誌の読者層との大きな違いだと思います。
──最後に、『猟奇』をはじめとするカストリ雑誌が当時果たした役割りについて。
世間では、カストリ雑誌、ピンク雑誌と呼んでいましたが、ぼくたちは、おとなの読む雑誌をつくっているんだという自負がありましたから、おとなが読むに耐える内容のものを、提供してきたと思っています。それと、戦争中の暗い抑圧された時代への反発という意味で、カストリ雑誌は、その役割りを十分に果たしたと確信しています。